歩き遍路の思い出⑱ ヒロシさんと黒川さん
お遍路さんが泊まらせてもらえる善根宿や通夜堂は普通誰もいない。でも、中には管理している人がいるところもあった。前回の心霊体験と話は前後するが、まだ高知を歩いていたとき、そんな善根宿でお世話になったことがあった。
心霊体験に苦しめられていたころで、精神的にまいっていたころでもあった。
歩くのをやめ、とある海岸でぼんやりと海を眺めていた。そこは、冬なのにサーフィンをしている人たちでにぎわっていた。ウェットスーツを着て、海から頭だけを出して波を待っているサーファーたちは、遠くから見ると、アザラシの群れのようだった。
旅も20日を過ぎていた。憂鬱だった。このまま歩き続けて、全ての寺を回り終えたところで、いったい何が生まれるのか。社会の中で仕事を持たず、何者でもなかった私は、不安と孤独を抱えていた。
後ろから、ぼそっと声をかけられて、振り返った。60歳くらいだろうか、背の低いじいちゃんがニコニコと笑っている。
「お遍路さんやろ。うちにおいで。うちで泊まり。」
汚らしい格好で、ザックを背負っている。私と同じお遍路さんだと分かった。
でも、まだ昼過ぎだった。まだまだ歩ける。即座に断った。
「いえ、いいです。」
「まあ、まあ、泊まり。ごはんもあるし、風呂もある。」
「いえ、まだ歩けますから。」
何度も断ったが、じいちゃんはそれ以上何も言わない。会話にならなかったので、困った。どうしようか。
「いいんですか。」
「ええよ。」
ニコニコ笑ってる。
歩けるけど、本当はもう歩きたくなかった。つかれきっていた。
じいちゃんに着いて行った。
「どこから来られたんですか。」
「宿はどこにあるんですか。」
背中ごしにいろいろ語りかけたが、じいちゃんは何を訊いても「あー。」「ふん。」「へえ。」などとうなずくばかりで、全く会話にならなかった。途中で質問するのをあきらめて、ただ黙って着いて行った。どういう人なんだろうか。なぜ誘ってくれたんだろうか。
善根宿と思しき建物が見えてきた。ボロボロの山小屋のような建物だった。建物の外で管理人のような人が、マキを割っていた。じいちゃんと私を見かけると、マキを割る手を止めて
「おー、おっさん、連れて来たんかー。」と言った。
「あー。」じいちゃんがよく分からない返事をした。
横で首をかしげていると、管理人さんが「このおっさん、ボケとんねん。」と私に向かって笑った。「もう2か月くらいここで泊まっとる。」
あーそういうことだったのか、と納得したが、では、さっき私に声をかけてくれたのは一体何だったんだろうと、不思議に思った。あのときは、はっきりと意志のようなものを感じた。
管理人さんは、40歳くらいのおじさんで、ヒロシ(仮名)という。じいちゃんの方は黒川(仮名)というらしい。ヒロシさんは目が細くつりあがっていて、見た目は怖そうだが、表情にしまりがなく、お人よしそうな性格がにじみ出ていた。かなり口が悪く、始終何かに向かって暴言を吐いていた。でも、言葉とは裏腹に、すごく世話をやいてくれる。自転車を貸してくれたり、風呂を沸かしてくれたり、布団を敷いてくれたりした。
夜になって3人でごはんを食べた。暖炉の火が暖かい。ヒロシさんは、お遍路について、暴言を吐きつつ、いろいろおもしろい話を聞かせてくれた。
お遍路さんには3通りいるらしい。まずは、私のような普通のお遍路さん。次にホームレス、そして、プロ遍路。
ホームレスは大阪からやってくるらしい。大阪の路上や公園で生活するより、四国で白装束を着ていた方がお接待にありつけるという理由で、お遍路もどきの生活をするのだという。お寺には参拝しないのだとか。また、冬は寒いから動かないらしい。近くの橋の下に、お遍路もどきホームレスの、冬のたまり場があると、ヒロシさんは毒づいていた。
さらに、お遍路には、お接待で物品を得ることを目的としたプロもいるという。「あいつらニコニコ愛想だけよくて、感謝もせんと、全部とっていきよるからな。」ヒロシさんが怒っていた。詳細はよく分からないが、なんだか、よっぽどひどい目に会ったのだろう。ホームレスとプロ遍路の違いがよく分からなかったが、後者は物を盗むのかもしれない。「特に、シンイチって奴は要注意や。自分も覚えといた方がいいで。」
そのときは気にも留めなかったが、後日この「シンイチ」という名に会った。
基本的に無人の善根宿には、たまに自由帳が置かれてあって、宿を借りた人の寄せ書きが残されている。宿に泊まったとき、ペラペラ眺めることがあった。お遍路での苦労話や、お接待への感謝、自分の悩みについてなどが書かれていたが、その中に「シンイチ」の書き込みがあった。こんなやつ。
「今日もたっぷりお接待いただきました~ プロ遍路シンイチ」
太いマジックで書かれていて、名前の横にサインのような似顔絵が添えられていた。ヒロシさんの話を聞いているとき、なぜプロ遍路というのか、意味が分からなかったが、自分で名乗っていたのだ。こいつはかなりできあがっているな、と思った。
ヒロシさんと黒川さんの会話がおもしろかった。ヒロシさんは、相手の反応おかまいなしに、しゃべり続ける。黒川さんは何を言われても、「んー、ああー。」とニコニコ笑いながら返す。たまに、思い出したように単語を発するが、正直何を言ってるのか分からない。一方的にしゃべる人と、何もしゃべらない人。まったく会話になっていないのだが、おもしろい関係だなあと眺めていた。黒川さんが来てから2か月間、毎晩こんな感じなのだろう。
昼、私を誘ってくれたときの黒川さんが、ますます不思議になってきた。あのときは、たしかにまともにしゃべっていた。
この謎は18年経ったいまだに、解けていない。
ただ、あの瞬間の私は疲れ切っていて、憂鬱で、孤独で、不安で、あのとき、黒川さんに誘われて、夜3人でごはんを食べて、本当に安らぎを覚えた。
ひょっとすると、本物の仏様に出会っていたのかもしれない。