かにみそなまこをつまむ。

40代男子の日常、昔の思い出などについて、現在休載中

歩き遍路の思い出⑰ 心霊体験4

 前回、前々回の記事で書いた体験以外にも、何回か、心霊体験として話す方が楽な、体験をした。全て高知県の後半あたりを歩いているときの体験だった。

 一番不思議だったことがある。

 高知から愛媛に入って、少し進んだくらいの場所に、清水大師というお堂がある。山の峠付近にあるお堂なのだが、そこを越えたあたりで、涙がこぼれはじめたのだ。次々と涙があふれてきて、とまらなかった。森の中の道から出て、景色が開けたところだったから、そのときは、景色に感動しているのかな、と思っていた。でも、涙の量が異常で、訳が分からない、なんで泣いているんだろう、と冷静に考えてる自分もいた。

 峠を下りきると、気持ちがすごく晴れやかになっていて、足どりもびっくりするくらい軽くなっていた。さらに、それ以降、心霊体験がぴたりとおさまった。まったくそういう体験をしなくなった。

 後に、お寺の人から聞いた話がすごく不思議だった。

 清水大師を越えたあたりで、歩き遍路さんはみな、泣く、というのだ。訳も分からずに泣き、そのあと憑き物がとれたようになって、旅が楽になるのだ、と。

 なんだそりゃ・・・と思って、背筋がぞっとした。

 

 でも、今なら分かる気がする。

 私は、私の心を私だけのものだと思っていたのだ。特別な感じ方をする、私だけの心。でも、肉体と同じように、心だって普遍的な感じ方をする。好きな人と別れれば悲しいし、他人から優しくされれば嬉しい。1+1=2の世界で、心が存在している。徳島県の1番の霊山寺から歩きはじめ、同じルートで歩き続けたら、だいたい清水峠あたりで泣くように人間の心はできているのだと思う。

 個々の言葉は違うかもしれない。さまざまな悲しみや喜びの中で、人それぞれの、いろいろな言葉が生まれる。その言葉が邪魔をして、見えなくなっていることもあるその奥の、心は、誰もみな、同じように感じているのだ。優しさに対して素直になれないときも、言葉の奥にある心は、静かに感じていたりするのだ。

 旅の途中、私の言葉は中空をさまよっていたが、心と体は、道中の景色や、人の優しさ、旅のつらさなどを普遍的に体験していたにちがいない。(おわり)