歩き遍路の思い出⑮ おいしい水を求めて1
私がお遍路をしていたのは、25歳のとき。現在42歳だから、もう15年以上前になる。15年以上前のことを、なぜ今書けるのかというと、実は当時日記を書いていたのだ。夜、テントの中で寝袋にくるまって、その日にあった出来事を書いていた。
ボロボロになった1冊のノート。よく捨てずにいたと思う。全てを記憶しているわけではないから、そのノートを読み返しながら、ああ、そういえばそうだったなあ、と思い出し、このお遍路ブログを書いている。
よく捨てずにしまっておいたものだ。長い年月を経たあとで開く自分の日記は、赤の他人が書いたもののようにも思える。だから、ノートを読み返しながら、過去の自分につっこみたくなるときがある。こいつはバカじゃないか、と。
今回はそんなことを思ったエピソードを2回に分けて書こう。
高知に入ってから、1日に参拝できる寺の数が少なくなって、お遍路気分が薄れていた。バックパッカーのようなノリで旅を続けていた。お遍路15日目、1月9日には、高知の半分あたりまで進んでいた。相変わらず海岸沿いの道が多く、夜は砂浜にテントを建てて寝ることが多かった。夜が寒くなりだして、3シーズン用の寝袋に一抹の不安を覚え始めていた。
海岸沿いの道を歩くことが多かったが、お寺は山の上にあったりした。
あるとき、ぜーぜー言いながら山道を登っていると、ちょろちょろと水の流れる音がする。音がする方を探すと、道から逸れた、全く人が入らなさそうな森の奥に、小さな沢が流れていた。
道の駅でカツオのたたき定食を食べて以来、レストランで飲んだ水のおいしさが忘れられなかった。水道水はもういやだ。もっとおいしい水が飲みたい。そんな欲求があった。
近くまで行ってみると、沢の水はキラキラ光っていて、美しかった。
子どものころ、母に水は怖いぞと教えられて育った。警戒心はある。でも、どう見ても、飲めそうだった。こっちの水は甘いぞと言ってる。
両手ですくって、おそるおそる飲んでみた。
ら、いける。
というか、むしろおいしい。いや、むちゃくちゃうまい。ねるねるねるねの効果音が脳内に流れる。ねればねるほどうまい、のあとに流れる音。テーテッテレー。道の駅の、あの冷たいコップの水のようだった。
母の教えを乗り越えて、ものすごいライフハックを得た気分だった。沢の水はいけるのだ。
それ以降、沢の水をよく飲むようになった。さらに、公園などの水道の水をペットボトルに入れて飲むのが嫌になってきて、いつでもおいしい水が飲もうと、沢の水をペットボトルに汲んで、常に飲むようになった。
沢の水を飲めるものとして認識するようになると、そこらの川の水も飲めるものに思えてくる。水は、どんな水でも、じっと見つめていると、透き通っていてきれいに見えるから。山奥の小さな沢の水と、山麓の幅の広い川の水とに、大差はないように思える。
いつしか私は、山奥の沢ではなく、川と呼べるような場所の水でも、ガブガブ飲むようになっていた。(つづく)