かにみそなまこをつまむ。

40代男子の日常、昔の思い出などについて、現在休載中

春の運動会

 こどもの日、娘たちの小学校で春の運動会があった。コロナでしばらくやってなかった。数年ぶりの春の運動会。

 小学校主催ではなく、地域が小学校の運動場を借りてやっている運動会なので、かなりゆるい。プログラムに参加するたび、景品が出るし、ビールも売ってる。午前と午後に、2回も抽選会がある。明治時代、運動会は祭りの一環としてはじまったという。だから、これこそが本来の運動会なのだ。学校主催の秋の運動会は、見てても全然おもしろくない。やってる子供らも楽しくなさそうだし、運営してる先生らも楽しくなさそうだ。

 妻が役員だったので、私と長女、次女の3人で学校に向かった。長女も次女も初参加だ。行く前、運動会と聞いて、長女はかなり嫌がっていた。なぜ休みの日に学校に行くのか、と何度も尋ねる。「場所は学校でも、学校とは関係ないから、今日はたぶん楽しいと思うけどなあ。」説明しても、しぶってた。

 学校に着いたら、すでに開会式がはじまっていた。参加者が運動場に整列している。たぶん思い思い適当に並んでいるのだろうな、と思っていたが、長女は自分が並ぶ列がどこなのか、やたらと気にしていた。「学校じゃないから、どこに並んでもいいんだよ。」と言ったら、「先生に怒られたら、パパのせいだからね。」とプンプン怒ってる。学校というのは、精神衛生上あまりよくない側面があるのかもしれないと考える一方で、日々学校で、長女はこんなふうに自分で考えて行動しているのかと感心する。いずれにせよ、成長が、少し寂しい。

 プログラムがはじまると、長女もだんだんと、この運動会のことが分かってきたようだった。こわばっていた顔がしだいに緩んでいった。次女はといえば、そもそも今年小学校に入学したばかりなので、学校のおきても身に沁みついていない。すぐに、なじんだ。好きなようにプログラムに参加したり、走り回ったりしてた。

 4、5の地区が合同で主催しているので、どこの地区の代表がしきっているのかわからなかったが、どっかの代表のじいさんがずっとマイクでしゃべってた。「子供たち、怪我をしたら、手当はしません。水で洗ったら治るから、前のテントに来ないように。」なんと頼もしい発言なのだろう。思わず、拍手したくなった。また、障害物競争のとき、ルールが途中で変わった。はじめは一回一回走りきりだったのに、途中からリレー形式になった。じいさんが、「もう、どこが一位だが私には分かりません」なんて、言う。

 すばらしい運動会じゃないか。これぞまさにオンリーワンの世界。

 テニスのラケットにドッジボールをのせて落とさず走る。そんなプログラムでは、1人のおばあさんが、胸でボールを押さえて、ゴールまで走り切った。小学校に洗脳されているちびっこたちは、当然ブーイングを浴びせた。「ずるいぞー」「ババア、せこいぞ!」が、それもはじめのうちだけだった。午後には、地域のゆるさを学んでいき、あらゆる不正行為を笑いとばせるようになった。そうだ、ちびっこども、本当の人付き合いに、絶対的な正義などないのだ。

 帰るころには、かばんの中が、娘たちのとってきた景品でいっぱいになった。ティッシュ、石鹸、お茶漬けのもと、洗剤、スポンジ、のり。入りきらないので、娘たちのリュックにもつめた。

 帰り道、長女も次女も、ずっとニヤニヤしていた。ぱんぱんになったリュックを背負っている。ティッシュケースが10箱ほどあった。「もう、当分ティッシュには困らないねー。」長女が満足そうに言う。

 妻は学校に残って、最後まで片づけをしてくれていた。ありがたや。感謝しつつ、いい仕事だなーとも思った。普段はっきりと実感することがなくなってきたけど、地域に住んでる。人の集まりの中に住んでる。

 お金をもらえる仕事もあるけど、もらえない仕事もある。お金を稼ぐことが必ずしも仕事ではない。傍を楽にするから働く、なんていう。たぶん人と付き合うこと全てに仕事があるのだ。そして、疲れるけど、喜びがある。誰かのために、何かをしてるとき、誰もが王様になれる。いっぽうで、お金を払ってサービスを受けてるとき、ただの豚になる。お金をもらえないからといって、プライベートだからといって、人付き合いを拒絶した果てに、学校主催の、あのつまらない、秋の運動会があるんじゃないか、と思う。一致団結とか一生懸命とか、結局、豚を釣る言葉なのだ。豚はさみしがりやで、なまけものだから。

 全ての人付き合いが仕事で、だから、適当でええじゃないか。

 と、そんなことを思った、こどもの日。