かにみそなまこをつまむ。

40代男子の日常、昔の思い出などについて、現在休載中

歩き遍路の思い出⑦ 善根宿

 歩き遍路をはじめて二日目の夕方、寝る場所を探して、だだっぴろい公園をさまよっていたら、同じ年くらいの青年に声をかけられた。髪の毛がぼさぼさで、髭も生えほうだい。服も汚なかったから、同じ歩き遍路だと分かった。

「寝るところ探してんねやったら、近くに善根宿あるで。」

 善根宿、ぜんこんやど、というのが、よく分からなかった。が、私より旅慣れしてそうだったので、とりあえず、ついていった。

 歩いてすぐのところに、トタン張りの掘っ立て小屋があった。「お遍路してんねやったら、ここで泊まっていいねん。俺もう、ここ出るから、代わりに使いや。」

 ニコニコ笑って、言う。お遍路の道中には善根宿とよばれる建物がいくつかあり、お遍路をしている人たちは無料で泊まっていいのだそう。

 さらに、その青年は、四国にある全ての善根宿が載っている紙もくれた。その紙には、善根宿以外に通夜堂の場所も書かれてあった。通夜堂というのも、歩き遍路をしている人たちが泊まれる場所らしい。お堂というくらいだから、歩き遍路をする人のために、お寺の人が無料で貸してくれているのだろう。

 でも、そのときは、そんなにありがたいと思わなかった。ふうん、こんなのあるんだ、と思っただけだった。甘えるつもりはなかった。

 案内されて、おそるおそる善根宿をのぞいた。狭かったが、畳が敷かれていて、すぐ外に簡易トイレもあった。たしかに、テントで一晩すごすことに比べれば、ずっと快適そうだ。

 二畳ほどの部屋の隅に、その青年の荷物がまとめられていた。

「そっちは今日、どこで泊まるん?」

「今日はツテがあるから大丈夫やねん。俺も、もうすぐお遍路終了や。四国の人は、みんな優しかったわー。」

「終了って、まだはじまったばかりじゃないの?」

「ああ、俺逆打ちしてるから。」

 逆打ちというのは、普通とは逆の順番に八十八のお寺を回っていくことらしい。なんでも普通に回るよりご利益があるのだとか。

「んじゃ、もう行くわ。がんばってな。」

 何言か交わしたあと、青年は荷物を背負って、出て行った。

 話を聞くだけ聞いて、青年が行ったら外に出て野宿しようと思っていたが、一人になったら、なんだか気が変わった。せっかくだから、今日はここで寝ようかなと思った。ここならクマに襲われることもなさそうだ。もとよりクマとは出会っていないが。一人きりで、畳の上に寝ころび、しばらく仰向けになって、ぼんやりしていた。

 嵐のように優しさがやってきて、嵐のように優しさが去って行った感じがしていた。

 このあとも、この嵐のような優しさに、私は、何度も遭遇する。四国で出会った人たちはみな優しかったのだ。後々知ったことだが、四国には遍路をしている人に対してお接待をするという習慣があるそうだ。水をくれたり、食べ物をくれたり、泊まる場所を貸してくれたり。旅の途中、何度もこの優しさに触れた。あの青年も、お遍路の道中、たくさんの優しさに触れてきたのだろう。その優しさのバトンを受け取ったからこそ、きっと私に声をかけてくれたのだ。

 でも、私は、この優しさのことを思い出すと、今でも、胸が痛くなってきて、泣きそうになってくる。その時の私に、人から優しくされる資格などなかった。どうしようもない自分を何とかしたくて、一人もがいていた。旅を終えたら何かが見えてくるんじゃないかと信じるがあまり、自分一人の力で何もかもをしなければならないと思っていた。誰にも頼らずに、一人でやり切ることで、光が見えてくると信じていた。そんな私を、見知らぬ人が、嵐のような優しさで包み込む。何の見返りも求めない、純粋な優しさに対して、私は何度、心の中で舌打ちしただろう。屈託のない笑顔を、何度恨めしく思ったことだろう。

 私は若くて、愚かだった。生きる意味を知らなかった。社会とうまくやっていけないからといって、たった一人で生きる道を探していた。生きるってのは、死なずに生存するってことなんかじゃないのに。

 でも、今なら言える。私が今、なんとか社会という人間の海の中で泳げているのは、四国で出会った、たくさんの優しさが、心の奥に根差しているからだ、と。あれから十年以上かかってようやく、私もまた優しさのリレーに参加できるようになってきたのだ。そして、たぶん私は旅をしていたあの頃より、はるかに自由になれたんだと思う。

 

 

ひきこもり・不登校・休職からの社会復帰の悩みに