かにみそなまこをつまむ。

40代男子の日常、昔の思い出などについて、現在休載中

意味を書く

 今年2月からはてなブログをはじめたのだが、当初から自分に向けての日記を書こうと思っていた。私的な日記を公開するつもりでいた。

 自分のために書く、そんな日記を書いていて、気づいたことがある。それは、書くことではじめて意味が生まれるということ。気づいたというより、発見したに近かった。この出来事にこんな意味があったのか、と発見した。

 本当に、色褪せた毎日を送っていると思っていた。でも、出来事としての毎日が色褪せてたのではなかった。ただ、私が毎日に、色付けをしていなかっただけだった。書きながら、私は何度もびっくりさせられた。

 ずっと出来事の中に意味があると思ってた。世の中には意味がある出来事と意味がない出来事がある、と。意味がある出来事は永遠に意味があり、意味がない出来事には永遠に意味がない。でも、違った。意味を与えるのは、過去の出来事ではなく、今生きている私なのだった。

 今の私が、過去の出来事に意味を与える。別に出来事を誇張したり、歪曲したりする行為を指しているのではない。そのとき気づけなかった喜びや悲しみを発見したり、出来事から物語のような流れを読み取ったりする。こんな出来事、書く意味があるのか、などと逡巡する必要はない。意味を書いている。

 高校生のころ、毎日が光り輝いていた。あらゆる過去を思い出しても、高校のころの記憶だけが色褪せていない。特別な出来事なんて何もなかった。でも、他の時代の過去と違って、そのころの私には毎日を語り合える友人たちがいた。

 毎日、数名の友人たちと駅前の喫茶店に集まって、その日あったくだらないことを語り合い、バカ騒ぎしていた。本当にくだらないことばかりだった。でも、語れば、その日1日が突然、キラキラと輝きはじめる。アホみたいな失敗も、ちょっとした偶然も、絶望的な事実でさえ、全てが価値を持ちはじめ、石ころのような1日だったはずが、いつの間にかダイヤモンドのような、大切な1日に変わっている。

 大学に進学し、友人たちと離れ離れになったあと、大学とはこんなにつまらないものなのか、と当時の私は思い続けていた。でも、大学そのものがつまらなかったのではないと、今の私なら分かる。つまらないという意味を語れなくなった日々が、つまらなかったのだ。たとえ、つまらなくても、つまらないと語れば、つまらないという意味が生まれるのだ。つまらないという色に塗られるのだ。美しい色のつまらなさだってあるかもしれない。

 正直、語ることって、もっと薄っぺらいものだと思っていた。でも、語らないことが、人生の空洞を作っていた。語ることが人生の意味そのものだったのだ。私の心は、出来事の詰め合わせではなく、詰め合わさった出来事から生まれた言葉こそ、私の心なのだ。言葉を無視し続けたから、どんな出来事も意味を持たなかった。もう、毎日何が起こったのかは気にしない。毎日をどう語ろうか、と書こう。

 ずっと色褪せていた気がする。ずっと色褪せていた毎日に、これからどんどん色を塗っていこう。私の人生は無駄でなかったと思えるように。喜びに満ち溢れた人生だったと思えるように。

 

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