かにみそなまこをつまむ。

40代男子の日常、昔の思い出などについて、現在休載中

怒りの季節

 陰陽五行によると、春は怒りの季節らしい。夏は喜び、秋は悲しみ、冬は恐さなのだとか。

 本当ちょこちょこと腹の立つことが増えている気がする。ここ最近怒りについて考えることが増えた。今日、少し分かったことがあった。

 怒りを反芻してるとき、怒りは何らかの物事と結びついている。反芻するから結びつくのか、結びついてるから反芻してしまうのかは分からない。

 「原因である〇〇があって、その結果、腹が立った」と思っている。「〇〇のせい」にしてるわけではなくとも、「〇〇があって、結果、腹が立った」と捉えていることに変わりはない。が、この認識の仕方が問題なのだ。この認識の仕方の場合、「怒りの原因が、純粋に自分自身である」という風にはならないのだ。

 どんな出来事が怒りの前に起こったとしても、怒ったのは自分自身で、怒りをおさめるのも自分自身でしかないはずだ。だから、怒りと〇〇には関係がない、と捉えなければならない。

 原因をあれこれ分析した上で、どうすればいいか、でもないのだ。私は、ずっと怒りをコントロールするために、そのように考えていた。自分のものである怒り、そのものには触れず、怒り以外に原因があると認識していた。そりゃ怒りはおさまらないはずだ。自分が怒ったのではなく、自分は怒らされたのだから。自分のせいで腹が立ったわけではないのだから。

 今日、腹が立つことがあって、いつものように、あれこれ考えていた。で、こんな感じで、怒りは自分のものなのだ、ということに、気づいて、原因は何もない。原因は自分が腹が立ったから、腹が立った。自分が怒ったから怒った、というふうにとらえてみた。「怒る」という言葉は、必ずしも他動詞ではなく、自動詞としても使えるのだ。

 すると、燃えさかるような怒りに包まれていた心が、イライラしているような状態になった。腹が立つ。ああ腹が立つ、イライラする。「〇〇があって、腹が立つ」ではないので、分析する必要はない。反省も要らない。ただイライラしている。これくらいなら、全然いける、と思った。いつしか勝手に消えていくレベルのやつだ。

 つまり、今日、私は、春のせいで、イライラしてたのだ。

 少し成長したかもしれない。